幼児を演じ続けた芸
先日、アニメ「サザエさん」でイクラちゃんの声を長年担当されてきた声優・桂玲子さんが、89歳で逝去されたという報に接しました。
89歳というご高齢で、昨年まで幼い子どもの声を演じ続けてこられたその芸には、ただただ驚きと敬意を覚えます。
イクラちゃんの言葉は
「ハーイ!」
「バブー!」
「チャーン!」
わずか三つほどです。
それでも、あの声を聞けば誰もがすぐにイクラちゃんを思い浮かべます。
言葉は少なくても、そこには確かな存在感があります。
長年にわたり多くの人に親しまれる役を演じ続けてこられたその芸に深く敬意を表するとともに、心より哀悼の意を表します。
そして、その三つの言葉が、ふと別のことを考えさせてくれました。
「大丈夫」という便利語
ある日、ファミリーレストランでのことです。
店員さんがこう聞きました。
「コーヒーは大丈夫ですか?」
するとお客さんはこう答えます。
「大丈夫です」
さて、この「大丈夫」はどちらの意味でしょうか。
「コーヒーをください」なのか。
それとも「要りません」なのか。
日本語の「大丈夫」は、とても便利な言葉です。便利すぎて、ときに意味がぼやけます。
そもそも「大丈夫」とは、中国語由来の言葉で、「立派な男子」「頼れる人物」を意味しました。
そこから「問題ない」「安心してよい」という意味へ広がり、現代では、必要か?必要でないか?など肯定にも否定にも使われる曖昧な便利語になっています。
それでも日常の会話では、なんとなく通じてしまう。
日本人の「空気を読む文化」が、その曖昧さを補っているのかもしれません。
言葉は「言の葉」と書きます。
内なる思考が、葉のように外へ現れたもの。
つまり言葉とは、その人の思考そのものです。
言葉が曖昧になれば、思考もまた曖昧になります。
三語で済む思考の蔓延
ところが最近、少し気になる場面があります。
ビジネスの現場でも
「やばい」
「めちゃくちゃ」
「大丈夫」
この三つの言葉だけで会話が成立していることがあります。
「やばい」は、もともと江戸時代の隠語で「危ない」「具合が悪い」という意味でした。
また「めちゃくちゃ」は「滅茶苦茶」と書き、秩序が壊れた状態を指す言葉です。
ところが今では、本来の意味とは関係なく
単に強調する副詞として使われることがほとんどです。
「めちゃくちゃ美味しい」
「めちゃくちゃ面白い」
言葉の意味が広がったり変化すること自体は珍しいことではありません。
しかし広がりすぎると、逆に何も説明していない言葉になることがあります。
「この案件、やばいですね」
「いや、めちゃくちゃ大丈夫ですよ」
何がどうやばいのか。
どこがめちゃくちゃなのか。
語彙が貧困で、それはあまり語られません。
言葉は人格を映す
電車の中でも、街を歩いていても、レストランでも、多くの人がスマートフォンを手にしています。
便利な道具であることは間違いありません。
しかしその便利さの中で、私たちは思考に使う時間を少しずつ失っているのかもしれません。
語彙が減れば、思考は浅くなります。
思考が浅くなれば、物事の本質をつかむ力も弱くなります。
イクラちゃんは、多くの人に愛されるキャラクターです。
そこには声優の確かな芸があります。
しかし大人が三語だけで世界を語るとしたら、それは芸ではなく思考の放棄でしょう。
言葉を失えば、思考を失う。
思考を失えば、社会の質も下がる。
言葉は、人格を映す鏡です。
便利な時代だからこそ、ときにはスマートフォンをポケットにしまい、自分の言葉で、自分の頭で考える時間を取り戻したいものです。
そうしないと私たちは、いつの間にか
「ハーイ」
「バブー」
「チャーン」
の代わりに
「やばい」
「めちゃくちゃ」
「大丈夫」
この三語だけで生きていく大人になってしまうのかもしれません。
日本人のイクラちゃん化が、静かに進んでいます。



