時を刻む「透ける」時計
最近、ちょっと奮発して機械式の腕時計を買いました。
中が透けて見える「セミスケルトン」タイプ。
細かい歯車がカチカチと動き、針が静かに時を刻んでいきます。
スケルトン? 透けてるから? ホントかな?(笑)
と思いながら、妙に納得してしまう自分がいます。
ただし、この時計、自動では動きません。
毎朝、自分でゼンマイを巻かないと止まってしまうのです。
でも、不便なようで、そこに妙な心地よさがあります。
自分が関わることで、歯車が回り、秒針が動く。
時間に自分の手が加わっている。
という不思議な感覚は、
スマートウォッチでは得られません。
チャイムのない時間の記憶
そういえば、中学時代に通っていた学校はチャイムが鳴りませんでした。
時計を見て、自分で時間を判断して動く。
あの習慣が、時間を“与えられるもの”から“扱うもの”に変えてくれた気がします。
高校に入り、突然チャイムが鳴るようになり、思わずビクッとしたのを覚えています。
誰かに時間を管理される感覚に、少し戸惑いました。
AI,デジタルが動かす日常の中で、ゼンマイを巻く
今はどうでしょう。
スマホが予定を組み、AIが「これでいいですか?」と提案してくれる。
ありがたい一方で、ふと我に返る瞬間があります。
「ちょっと待って、私が悩む余地どこ行った?」
気づけば、スマホとAIが“私の人生の脚本家”になっていたりして。
だからこそ、ゼンマイを巻く。
たった10秒でも、
自分の1日を「自分で動かす」感覚が戻ってくるのです。
井上陽水の歌が沁みる朝
ある朝、ふと頭の中に流れたのが井上陽水の「ゼンマイじかけのカブト虫」。
若い頃は意味が分からなかったけれど、今では沁みます。
幸福に糸をつけて引きずり回していたら壊れてしまった──
その歌詞には、“自分が良かれと思って関わったことが、
かえって誰かや何かを傷つけてしまう”という、
ちょっと切ない人間の不器用さがにじんでいます。
手をかけるということ
便利さが進むほど、私たちは“関わるよろこび”を忘れてしまいがちです。
でも、本当は、手間の中にこそ人間らしさが宿っている。
ゼンマイを巻けば、時計が動く。
自分の時間も、少しずつ整っていく。
もしかすると、部下のやる気スイッチも、
そっと巻いてあげるとうまく回るのかもしれません。
(※強く巻きすぎると壊れるので、ご注意を。)
経営も、人生も、きっと同じです。
「放っておけば回る」ものではなく、
「関わったぶんだけ動いてくれる」もの。
それは少し面倒で、でも、とても豊かなことなのだと思います。